2021.11.18 share


ヤマハ 
大村 寛子(おおむら ひろこ)
 執行役員 ブランド戦略本部本部長

1992年、ヤマハ株式会社入社。IT部門、製造部門を経て電子楽器の商品企画・開発、鍵盤楽器営業等を担当した後、2018年にヤマハで初となるマーケティング全社部門を立ち上げる。2019年執行役員就任。2021年4月よりブランド戦略本部長としてブランド価値向上に取り組む。日本アドバタイザーズ協会理事。 

 ヤマハは2019年、人々が心震わす瞬間を「Make Waves」と表現し、ブランドプロミスとして掲げた。2020/21カンヌライオンズでは、人工知能(AI)と人間の共創を追求するプロジェクト「Dear Glenn」がエンターテインメントライオンズ・フォー・ミュージック部門でシルバーを受賞した。Make Wavesを具現化した作品が世界的なフェスティバルで評価されたことで、ブランド戦略に弾みをつけたいと考えている。 

 当社はこれまでもロンドン開催の国際広告祭「D&AD」や、アジア太平洋広告祭「ADFEST」などで受賞経験がある。カンヌライオンズでは2019年に「I’m a HERO Program」をエンターテインメント部門に応募し、最終選考に残った(Shortlisted)。 

 これは南米コロンビア第2の都市メデジンのスラム街に住む子どもたちに、リコーダーに似た当社のカジュアル管楽器「ヴェノーヴァ」の演奏方法を教え、地元プロサッカーチームの試合で国歌演奏に挑戦するという企画である。 

 日常的に犯罪の危険にさらされ、貧困や差別と戦う子どもたち。あこがれのサッカー選手と同じピッチに立てるのは、誇らしい瞬間だった。市長やサッカーチームの協力の下、「楽器を持つ子どもたちは銃を持たない」という当社の信念を結実させた。 

 いわば一対一の人海戦術で子どもたちに演奏法を教え込んだI’m a HERO Programと、今でも熱烈なファンを抱える伝説的なピアニスト、故グレン・グールドの弾き方を学習したAIが人間の音楽家と共奏するDear Glennとでは、クリエイティブの方向性が随分違うと感じる人もいるかもしれない。 

 「Dear Glenn」では当初、2つのことを念頭に置いていた。すなわちAIを使うこと、そしてイノベーションを起こすこと。AIを使って、音楽に何らかのことを導けないかと考えていたのである。必ずしもクリエイティブにこだわらず、カンファレンスの開催も頭に入れていた。音楽エンターテインメント業界では、カンファレンスというと非常に質の高い議論が想定される。オーストリアのリンツで開かれる世界的なメディアアートの祭典「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」のような場で、カンファレンスを開催できたら、と思い描いていた。 

グールドが再び弾いているかのように

 紆余曲折はあったが、担当チームがグールドにたどり着いてから、プロジェクトは大きく前に進んだ。AIがグールドの演奏と楽譜との関係性を解析し、その法則を抽出できれば、当社の自動演奏機能付きピアノ「ディスクラビア」を使って、人間の演奏家と共奏したり、グールドが弾いたことのない曲を演奏したりすることができる。あたかもグールドが再び弾いているかのように……。AIが深層学習するには大量のデータが必要だが、幸いにもグールド財団から100時間にも上る演奏音源を借りることができた。 

 感動を生むコンテキストをつくるという点で、技術者はすべてをAI任せにはできないと感じていた。そこで、グールドと生前つき合いのあった音楽関係者や、東京芸術大学でグールドを研究する学生にも演奏を聴いてもらい、さまざまなアドバイスを得た。それをAIに取り入れることで、彼らがイメージするグールドとの間に齟齬(そご)が起きないよう配慮した。 

 AIには人間と勝負するとか、人間の仕事を奪うといったイメージもある。当社がこだわるのは、あくまで共創である。AIを一緒に音楽をつくりだすパートナーと位置付ける。AIが優れているのは、当社の技術者の言葉を借りるなら、「人間の身体能力を拡張させる」点。人間が限界を超えて、新たな次元に到達しようとするのをAIが手助けしてくれるという意味である。AIとの共創により、音楽表現の可能性を広げていきたいと考えている。 

グールドが未演奏の曲も取り上げる

 2019年9月7日、アルスエレクトロニカのプログラムとして、リンツ市の修道院でDear Glennを披露した。AIが演奏するピアノが、気鋭のピアニスト、フランチェスコ・トリスターノ氏とデュオをしたり、リンツ・ブルックナー管弦楽団のバイオリン、フルート奏者とトリオで演奏したりした。演奏曲目には、グールドの代表曲『ゴルトベルク変奏曲』をはじめ、グールドが演奏したことのないバッハの曲も取り入れた。 

 特にグールド未演奏曲では、手本となる音源がない中で、AIがどう演奏するかが最も注目される点だった。グールドならこう弾くだろうという音を奏でるAIと、人間の音楽家がお互いに刺激し合いながら、息の合った合奏が繰り広げられた。演奏終了後、観客からは「まるで通常のコンサートのようだった」という声も聞かれた。 

 当初想定したとおりカンファレンスも合わせて開いた。当社の技術者が、コンサートに登場した音楽家や、グールド財団のメンバーと共に、「AIとアーティストの共創の可能性と未来について」をテーマに議論した。若くしてコンサート活動をやめ、電子媒体の録音に傾倒したグールド。もしAIと出合っていたら、どう活用しようと考えたか、パネラーの議論は尽きなかった。 (特設サイトは、https://www.yamaha.com/ja/about/ai/dear_glenn/

絶対にチャレンジすべき賞と判断

 当社がカンヌライオンズにチャレンジしようと思い始めたのは、全社横断のマーケティング部門が発足した時だった。この部門にはクリエイティブチームを置いたのだが、最新の動向を学んでもらうため、チームのメンバーをカンヌライオンズに送り込んだ。大挙して訪れたので、「ヤマハさん、どうしたんですか」と現地で広告関係者から声をかけられたくらいだった。 

 チームのメンバーはカンヌで精力的に情報を収集した。手分けしてキーノートを聴講し、毎夜のミーティングでどんな点に注目すべきか話し合った。カンヌライオンズはパートナー探しの場という面でも秀でている。I’m a HERO Programのパートナーに出会ったのは、実は初めてカンヌを訪れたときだった。最先端の情報を短期間に、一気に得られるという点で、これほど素晴らしい場所はない。 

 カンヌライオンズに参加し、その価値を確信したことで、絶対にチャレンジすべき賞であると判断した。企業は社会にどう貢献しているか、どんなインパクトをもたらしているか、ブランドのあるべき姿を提示している。ただ、それが世の中にしっかりと理解されているかを知るためには、フィードバックが必要である。カンヌライオンズでは、それを最先端の、最も厳しい目で評価してもらえる。業務であれ、ブランディングであれ、修正すべき点が見つかれば、企業は今後の経営に生かせるだろう。 

心震える瞬間をつくるパートナー

 カンヌライオンズでシルバーをとったことで、社内は大いに気勢を上げた。受賞の連絡を受け、担当した技術者の記事を作成、ウェブ社内報に掲載して、皆で喜びを分かち合った。コロナ禍でやや低調だった社内のムードを一気に明るくしてくれるニュースだった。 

 当社のブランドプロミス、Make Wavesは世の中にどんな価値を提供できるかを念頭に置いている。ここでいう価値とは、お客さまから見た価値である。つまり、お客さまにヤマハはどういう存在であると思ってほしいかと問いかけたとき、わくわくと心震える瞬間を生み出してくれるパートナーとして見てもらいたいと願っている。Make Wavesを実現することが、今のブランド戦略を実現する肝になっている。個性、感性、創造性を発揮し、自ら一歩踏み出そうとする人々の勇気や情熱をそっと後押ししてあげるような企業を目指している。 

 ブランドとしてクリエイティブをどう位置付けるかを考えたとき、グローバルでコミュニケーションに一貫性を持たせること、そして製品自体が持つ機能的側面を語るだけでなく、製品を使うときの楽しさや喜びなどの情緒的側面を伝えることも大切にしている。スタイルガイドと呼ばれるクリエイティブガイドラインをつくり、すべての部門・子会社などにそれを守ってもらうようお願いしている。 

生の楽器が臨場感あふれる演奏

 Dear Glennを通じて提示したAIとの共創については、今どんなサービスができるか検討している。AI以外でも、合奏という文脈からも、過去の演奏記録のアーカイブという文脈からも、さまざまなアイデアが浮かんでいる。 

 当社の旗艦店であるヤマハ銀座店のブランド体験エリアなどで展開している「リアル・サウンド・ビューイング」もその1つ。ミュージシャンの演奏映像に連動して、電気信号を受信した生のピアノやドラム、ウッドベースが自動演奏で臨場感あふれるパフォーマンスを繰り広げる。「ライブの真空パック」と名付けている。これなら、今その場にいないミュージシャンのライブも楽しむことができる。  

 演奏者と聴衆の関係は決して一様ではない。テクノロジーが発達するにつれて、いろいろな可能性が広がっている。Dear Glennを通じて得られた価値観、考え方をさまざまな形で生かしていきたいと思っている。